ひらログ

ひららかのブログ

茨の道、クィアネスの仮死

 「家族、夫婦、世帯といった語は、財産を管理する単位である」という私のいわゆる結婚観は、事実婚の手続き(パートナーシップ宣誓および世帯合併)を経験したのちも変わらなかった。すなわち私は結婚に情緒的な意義を見出さない。

 結婚は無意味であるといいたいのではない。実務上の絶大な効力を結婚が占有している実態は、事実婚の当事者としていやというほど知っている。だからこそ、同性カップルを排除し、改姓の負担を一方に押しつける非合理な法律婚の制度にみずからを投げ入れることを拒んでいるのだ。

 私がおおざっぱに「財産」と呼ぶもののなかには、現金や不動産といった資産以外に、ときには意思表示の代理、性的接触の独占、子どもの身柄などが含まれる。私は夫に、夫は私に対し、法律上の配偶者とおおむね同等の権利および義務を有する(私たちではなく民法と慣習がそのように取り決める)。はじめて妻の権利なるものを行使したとはっきり自覚したのは先週末だった。

 ある明け方、夫は体調の異変を訴え、私は救急車を呼び病院まで付き添った。私たちは別々の姓を名乗ったが、救急隊員は私たちをそれぞれ「奥さん」「旦那さん」と呼んだ。私は医師から本人に代わって処方薬を受け取り、服用上の注意事項を聞いた。待合室で若干の冷静さを取り戻した私は、事実婚の妻は夫の個人情報を開示されうるのだ、とぼんやり思った。夫はすっかり快復している。

 私はこの日まで、この人は夫であると任意の他人に告げ、その妻を名乗るとき、これらの二語に「短い」以外の感想を抱いたことはなかった。しかしそれだけではなかった。配偶者であるということは、部外者ではないこと、代理人たりうることの証明だ。社会的に家族として扱われることが、こんなにも心強いとは。結婚がその効力を発揮するのは健やかならざるとき、そしてなきあとである。

 私は法律婚の制度をひどくきらっているが、法律婚を選択する人々を咎める気はまったくない。抗議する対象は制度であって利用者ではないのだから、その点を見誤ってはならない。そのうえ、事実婚の連れ合いと生きることは茨の道だ。子どもを望むのならなおさら。ここまでは以前から感じていたことだが、茨の道たるゆえんをより強く実感したのは、夫が救急車に運ばれたあとだった。

 事実婚の継続に必要な条件は、健康と収入に大きな不安がないこと、身元保証人が健在であること、周囲の猛反対と妨害に遭わないこと。あるいは、これらのいずれかが欠けていようと自身の選択を肯定するだけの知識と確信。当事者双方の合意だけでは不十分だ。事実婚はいつでもはじめられるが、つづけることは決してたやすくない。

 救急外来を出て、考えはじめたことがもうひとつある。私はいまや、性的少数者について書くことはあっても、性的少数者として書くことはできないのかもしれない。

 私はバイセクシャルだ。私は夫ひとりを愛しているが、その事実は私が女をも愛しうる女であることと矛盾しない。婚姻およびそれに準ずる手続きは人間のアイデンティティになんら影響を及ぼさない。少なくとも私はそうだった。とはいえ、当然ながら現在の私に愛する女性と呼べる人はいない。その人が現れるとしたら、離婚(正確にはパートナーシップの解消)か死別か不倫したときだ。いないままであってほしい。

 私はひとりの男性を夫と呼び、その妻を名乗る。その瞬間、私は同性カップルが直面しているであろうあらゆる困難から解放される──説明の手間、詮索の視線、不躾な質問、居心地の悪い曖昧な笑み、記入欄を埋めるべき字句の確認、面会の拒絶、神経を摩耗させながら繰り返すごまかし、存在の等閑視。私と夫の関係は社会から想定され、呼称を与えられている。かりに私が女性と暮らし、その人が救急車に運ばれたとしたら、私たちのどちらも「妻」「奥さん」とは呼ばれないだろう。

 「夫」「妻」の呼称を口にするたび、私は性的少数者を自称する資格を喪失するかのような気分に陥る。私は異性愛者ではない。異性を愛し、異性と暮らしたところで、両生愛者でなくなることはありえない。しかし、私の性的指向にかかわらず、私は異性カップルのために設計された制度を利用し、同性カップルが日常的に被る不利益を免除されている。同性カップルにはまだ、事実婚すら認められない。結婚制度が包含する関係は「夫婦」のみなのだから。

 みずからの手にかけられて死にゆくわがクィアネスを蘇らせる術があるとしたら、それは実在する女性に恋をすることでも、夫と別れることでもない。私が罪の意識に身を沈めようと、蓋をしようと、どうでもよろしい。気後れや葛藤はだれの助けにもならない。私の取るべき態度は、性的少数者でありながら婚姻に準ずる制度に組み込まれている現状を恥じることではなく、性的少数者にも開かれた法律婚の制度を望むことだ。

 夫婦の片割れならばクィアではないのか? 苦しまなければクィアではないのか? 違う。問うべきはこうだ──女と生きる女がなぜ苦しまねばならないのか? ともに生きる相手の家族を名乗るだけのことが、なぜ許されないのか? 少数者として生きることと苦しみのうちに生きることが同義であってはならない。愛する人とともに生きる未来、夫婦たちが当然の権利として享受している現在が、道なき道であってはならない。結婚の自由をすべての人に。