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ひららかのブログ

なきあと

 粉飾の多い弔辞を述べられるのは耐えがたいからしばらく死ぬまい、と決めている。とはいえ、ながらえたいと願うものには死にどきも死にかたも選べないから、実際にしているのは、帰宅したら「今日も弔辞を述べられずに済んだ」と思うことだけだ。

 「あってはならない」「痛ましい事件/事故」が報道される。被害者はきまってうつくしき犠牲者であり、「未来ある若者」「仲睦まじい夫婦」「善良な市民」など言い回しは多岐にわたるが、修飾部の使いみちはみなひとしく、扇動と糾弾を狙いとしているに違いない。私は考える。老人なら、ひとり身なら、犯罪者なら、死んでよかったか。亡くなった人の属性によって、罪の重さを、ひいては命の重さをはかるのは愚劣な真似だ。

 私がいま死んだら、波紋を生ずる役にはかなり立つだろう。私は「まさにこれから羽ばたいてゆこうという新社会人」だから。あるいは、失踪などしようものなら、「はじめからこの世界には不向きだったようなところがあって」といった詩的散文を吐きかけてもらえるかもしれない。生者の道具になりはてた死後を想像すると、恥ずかしさで息がつまる。この身なきあと、私を愛した人はことばを、そうでない人は記憶を、すっかり喪っていただきたいのだ。