ひらログ

ひららかのブログ

映画館にはひとりで

 今月は自室で映画を四本観た。『お嬢さん』、『コンテイジョン』、『パラサイト 半地下の家族』、『ゆれる人魚』。『お嬢さん』以外は、最愛の宇宙人が「おもしろかったよ」と言っていたのを思い出して探してきた。

 おもしろかったよ。でも、おもしろいだけじゃなかったよ。そういう作品を、そういう作品だから、彼はおもしろいと評したのだろう。なんというべきか、たいへん刺戟に富んでいた。私からすれば「体調のよいときじゃないと、だめなやつ」だった。

 『コンテイジョン』は風邪っぽい夜に一〇分で中断して、翌日に息をはずませながら完走した。『パラサイト』はいっぺんに観た。いっぺんに観たのはよいが、どういうわけか胃がしくしく痛んで、横になりながら三時くらいまで目を開けていた。『ゆれる人魚』は比較的、心安く最後まで観た。おとぎばなしだと割りきれるからか、膝に猫を乗せていたからか。

 最愛の宇宙人は、映画をあくまで創作物として楽しめる体質なのだ。『ミスト』にも『ジョーカー』にも「おもしろかったね」のひとことだ。稀なる美点だ。一種の特殊な技能ともいえる。それにひきかえ、私は見聞きしたものに心身をゆさぶられやすい。ささいなきっかけで血の気を失う。おもしろい映画を観ているあいだは、きっとまっしろな顔をしている。よい映画は毒薬だから、一日一本より多く摂取しないようみずからを厳しく律している。

 感受性が強いんだね、とのフォロー(だろうか)を受けることもあるが、そのような自覚はない。たしかに、音や光やにおい、そしてことばには感じやすいが、人の顔や声からこころの機微を察するのはとても苦手だ。あまりにおおざっぱなたとえだが、かりに刺戟の種類を頂点としたレーダーチャートによってわが感受性を図示したなら、鋭角をもった、全体の面積としてはかなり小さい多角形を描くだろう。

 友人が、悩みを打ち明けたあとで「ひらちゃんは『ふうん』しか言わないから話しやすい」と、たぶんほめてくれたことがある。嬉しくないことはなかった。ほかにことばがいるものか、ふさわしいことばなどあるものか、とこれでも考えて聞いていたつもりだから。

 向きあって、あったかくておいしいものたちの湯気を浴びながら、この子も私もひとりだと思った。あなたが苦しいというとき、それを耳にする私は苦しくない。ふたりいて、ひとりとひとりだ、と思った。苦しみがとりのぞかれますことを、と願ってやまなかったのは本心だが、苦しみを代わりに引き受けることはだれにもできない。

 友人の身に降りかかったこと、友人がすべきと感じていることは、友人のものにほかならない。私は、私の悲しみを他人に私のごとく悲しまれるのがきらいだ。そのような態度を私に求める人があったとして、したくないことはできない。

 映画を観て目の奥を熱くしたり具合が悪くなったりするのと、共感能力に長けているのとはまったく別々の話だ。私が映画を観るとき、登場人物にこころを寄せはしない。応援も同情もしたことがない。

 ならば、どうして、「おもしろかったね」とほほえむ恋人の隣で顔面蒼白になっているのか。それは、映画のあらゆる精巧な装置に──光景に、状況に、関係に、時代に──みずからの体験をいやおうなく記憶から引きずり出され、のたうちまわっているからだ。けっきょく自分のことで頭がいっぱいというわけだ。そうして、みずからの生きねばならない現実の世界を描きなおす。映画を通して世界を見るせいで、映画を観る行為はつねに痛みと喜びに満ち満ちている。

 私は、観たい映画ならひとりで観たい。なにかしらの映画を観たいだけのときは、最愛の宇宙人と観たい。私の語る映画の感想は、私の身の上話そのものにすぎないから。むきだしで、退屈で、閉じられた感情の殴り書きを、温かいうちにすすんで恋人以外に差しだすほど私は外向的ではない。

 感想を語りあいたくて映画館に友人を誘う人の、少なくないことは知っている。遠い星ではそんな遊びが流行っているのだな、と思う。ほんのすこし憧れもする。私の殻はかたい。