ひらログ

ひららかのブログ

猫を迎えた日

一.一月二三日

 ロレーンもデルフィーヌも、こんなところで自分の話をされているとは知らずにすやすや寝ている。三毛のロレーンはキャットタワーのてっぺんで、キジトラのデルフィーヌは膝の上で。私の右腕はデルフィーヌの枕になっているから、片手でキーボードを打たないといけない。手の甲に生ぬるい鼻息がかかる。やわらかな腹と背が波打つように上下する。

 二匹の保護猫を実家に迎えて、きょうでちょうど一年になる。保護猫カフェの店長さんが二匹を連れて来た昼下がりを思い出す。たいへんな甘えんぼうのデルフィーヌは見知らぬ家でも物怖じせず、私は初対面で顔を舐められた。

 慎重なロレーンは、「ちゅ」のつくおやつにつられていちど寄ってきたきり、翌日までリビングの物陰から出てこなかった。「猫としてはこれが普通」と聞いて安堵したのを覚えている。そのロレーンがじつは遊び好きの目立ちたがりで、いまでは寝ている人間たちを踏みつけて走り回るなんて、当時はまだ知らない。

 二匹がいつ、どこで産まれたか、知る人はいない。ロレーンは保護されるまで野良猫だった。左耳の先は避妊手術を済ませた証として切り取られ、激しい喧嘩をしたのか、前歯の一部は欠け、唇を閉じてもえぐれた口角から牙が顔をのぞかせる。デルフィーヌは捨て猫の子だろう。新生児期を愛護センターで過ごしたようだ。

 わが家に来た時点で、ロレーンは「たぶん三歳か四歳」、デルフィーヌは「一歳か二歳くらい」。

 

二.冬

 飼い主の愛情を独占したがるデルフィーヌは、私たちの関心がロレーンに向けられたのを察知すると、必ずロレーンを威嚇した。ロレーンは温厚な性格だが、敵意を剥き出しにされたら無視はできない。低い唸り声と荒い息づかいを聞く日々が数週間ほどつづいた。

 二匹はもともと一緒に遊んでいたそうだし、だれとでも仲良くできる子たちだとの説明も受けていた。環境の変化が二匹の関係に悪影響を及ぼしているのは明白だった。

 私たちはどこへも行かないと気づいたのだろうか。デルフィーヌの唸り声が、いつしかぱたりと止んだ。二匹が互いに毛づくろいしてやるのをはじめて見たとき、私と妹はほとんど涙ぐんでいた。おしりとおしりをくっつけて眠るのも、ひとつのおもちゃを二匹で追いかけるのも、いまではあたりまえの光景だ。

 ロレーンとデルフィーヌと暮らしはじめたころ、私は無職だった。抗うつ薬を飲みながら転職活動をしている私に家族と出かける余裕はなく(時間はありあまっていたけれど、予定外の行動に充てられるほどの気力がなかった)、私以外の三人が保護猫カフェに足しげく通って譲り受ける子を決めたのだった。

 私の転職とそのわずか五ヶ月後の退職、および二度目の転職を二匹は見届けたことになる。そのあいだに妹は最初の就職と転居をした。四人の家は、この一年で三人と二匹の住みかとなった。

 

三.春

 ロレーンとデルフィーヌがいてよかったと思わない日などないが、とりわけ強くそう感じたのは、無職だった冬よりもむしろ、一回目の緊急事態宣言が発令された春だ。

 うららかな日和に、出かける先はスーパーマーケットか病院だけ。恋人にもいっさい会わない。なにより、ひとりきりになることができず、気がふさいだ。五月に入って出社を命じられ、前職の代表が従業員の生命をつゆほども気にかけていないことを話しぶりから悟った、あのころ。だれにも会わず、どこにも行かないから、猫といられることだけが喜びだった。

 目鼻や肌で季節の変化を感じとる機会を失った昨年、私たちは春の息吹を猫から伝え聞いた。アンモナイトみたいだったお行儀のよい寝相はどこへやら、四肢を投げ出して長く伸びる。みっしり、たっぷりとした豊かな冬毛が抜けはじめ、顔つきは涼しげに、こころなしか精悍にも見える。

 猫はことばをもたず、「あたたかくなった」とからだいっぱいに言う。暗い世相とは別の時間を生きているかのようにすこやかだ。ロレーンとデルフィーヌがすこやかであることは私のいちばんの望みであり、祈りでもある。

 

四.夏と秋

 無事に退職と転職を決めた夏からは、恐ろしく大きいものに対して無力や怒りを覚えることはあっても、身辺だけを眺めれば穏やかなものだった。新しい職場の居心地はすばらしく、残業もないに等しい。一〇分だけ自転車を漕いで帰れば、一九時には猫を撫でられる。

 出勤も三人のなかでいちばん遅い。朝七時を過ぎたころ、母がしつこくつきまとってくるデルフィーヌを抱き上げて私の枕元に置いて、「あとは頼んだ」とばかりに飛び出してゆくのを横になったまま見送る。そのあとはデルフィーヌと、運がよければロレーンもそろって一時間ほどまどろむ。私の部屋は、部屋のなかだけは、平和そのものだ。

 かりそめの平和維持のために、不満や感傷は人前で口にしない。たえず注視し、必要ならば批判すべき政府の動向は、体調がすこぶるよいときのほかは目に入れない。見聞きしない、考えない。心身をすり減らすことなく生きのびるには、これが手っ取り早い。身体の健康とひきかえに、想像力を鈍麻させるのだ。でも、いつまで? 猫はなにも知らない。知らずにいてほしい。いつだってやわらかな日ざしに包まれていてほしい。

 いま、ここにあってはだれもがそうに違いないが──わけもわからず、息をひそめて、夏を這いずり、秋を渡った。気づけばロレーンとデルフィーヌと過ごす二度目の冬を迎えていた。

 二匹を育てていた保護猫カフェは晩夏になくなった。感染症の拡大を防ぐため、そして猫を風評被害から守るために。店を閉じるも英断、営業をつづけるも英断だ。店長さんはクラウドファンディングで移住および工事費を募り、新たに長野県の某村で唯一の猫カフェを開業した。ロレーンとデルフィーヌの旧友に会える日を、私はずっと心待ちにしている。

(二匹に、ロレーンとデルフィーヌなどというスパイ映画から拝借したコードネームを割り当てているのはそういうわけで、このお店と店長さんはけっこう有名なのだ。この子たちにも猫カフェ時代のファンが大勢いる。むろん本名は別にある。)

 

五.二度目の冬

 年末年始休暇のうちに、二匹の写真をおさめた一冊目のアルバムをつくった。友人が教えてくれた便利なサービスを利用した。データを入稿すれば、小ぎれいに製本したのを届けてくれる。家族に配ると、ここ数年でいちばんかもしれないと思うほどの勢いで感謝された。私自身にとっても、すべての愛読書にまさる宝物だ。

 ロレーンとデルフィーヌは系統の違う美形で、ロレーンは風格があってやや鋭く端正、デルフィーヌはすこしとぼけたような愛嬌のある顔立ちだ。体型だけを見ると印象は反転して、脚が短く毛の長いロレーンは(じつはデルフィーヌより少食で軽いのに)たぬきのようにぽってりとしてかわいらしく、顔が小さく脚や尻尾の細長いデルフィーヌは、クレオパトラに愛されたという高貴なアビシニアンにも似ている。

 要するに二匹はとびきりの美形なのだが、アルバムには、いかにも美形とわかるすました写真を採用しなかった。大あくび。餌の横取り。激しいじゃれあい。前足を上げたまま居眠り。隙だらけで、よくばりで、わんぱくで、だらしないところを撮った。うつくしくないところを撮った。同じ家に住んでいる私たちだけが知る姿だ。すべてがいとおしくてたまらない。

 デルフィーヌが膝から降りたら、抜け毛とよだれの跡が目立つ毛布にくるまって、それらを残した張本人が潜り込んでくるのを待つ。待ったところで、そろって来る日やだれも来ない日、部屋を荒らしに来てすぐ帰る日などがある。私には選べない。ただ待つ。

 あたためあって、私と猫は冬を越し、二度目の春へと歩きだす。