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ひららかのブログ

猫と暮らすということ

 猫のある暮らしのすばらしさについては古来語りつくされているようだから、あえて猫を飼うデメリットについて書く。

 猫は(少なくとも私の生まれた家に住む二匹は)、そこらじゅうで爪を研ぎ、口に入るものは齧り、倒したり落としたりできるものはそのようにし、ところかまわず吐く。それで、リビングのテーブルから、菓子と文具と花瓶が消えた。端正な顔立ちに似つかわしくないほど排泄物が臭う。夜中にやかましく暴れ回り、明け方になると食事を催促して喚く。未知の、危険が潜む場所に入り込もうとする。私はクローゼットや浴室の扉を開閉するたびに神経を尖らせねばならなかった。存外寂しがりで、環境の変化にも敏感なため、家を長期間空けることができない。旅行好きや出張の多い単身者には不向きな生きものだ。

 さりとて、こういった些事は「ぜんぶひっくるめてかわいい」としか思われない。だからこそ両親は保護猫を迎えたのであり、そうでない人が猫を飼えば、双方に不幸をもたらすだろう。猫が家のなかをめちゃくちゃにするのも、脱走を図るのも、ごくありふれた自然なふるまいだ。やめさせようなどと考えるのは飼い主の傲りである。変えるべきは、そして変えることができるのは、猫の行動ではなく、人間の意識と住環境だ。

 本題に戻ろう。猫と暮らすものに約束された最大の苦しみは、別離である──私は愛猫と死別する。それは必ず二度起こる。生まれた家に猫を迎えたとき、私はこの子らより長生きせねばならないと悟った。

 子どもと動物の違いも、この点にあるのではないか。子育てと動物の飼育を比較すれば、前者の負担のほうがはるかに重い。金銭的にも、体力的にも、社会的責任という観点からも。それは、子どもが人格をもち、未来をはらんでいるからだ。子どもの存在は可能性と希望そのものである(と捉える人が親になることを望むのだろう)。自他未分の、人間以前の生きものが、手を離れ一個の人間として巣立ってゆく。そのさまをすぐそばで見届けるのは、なるほど、波乱と感動に満ちた一大プロジェクトかもしれない。

 それに対して、飼育動物が行き着く先は、死ひとつである。動物を飼育するものには、その最期を看取る義務が生じるのだから。愛猫との暮らしは、あたたかく、やわらかで、いとしく、かけがえがなく、いつしか終わる。

 子育てにいそしむ親は、まれに「私がいないとだめなんだから」などと口走る場面があったとしても(かつて子どもだった成人の一意見としては、この声かけは好ましくない)、最終的には「私がいなくても大丈夫」というところまで子どもを促し、導くことに喜びを見出すのだろう。動物にはその展望がない。飼育動物は死ぬまでまるきり「私がいないとだめ」なままだ。

 たとえば、猫を溺愛する飼い主が冗談めかして「下僕」や「奴隷」を名乗る、そのしぐさを私はきらっている。飼い主による謙譲も卑下も、たんなる欺瞞であり、権威勾配の隠蔽にすぎない。庇護や愛玩は、支配と征服からそう遠くないものだ。人が心底から猫を敬い、慈しみ、健やかなることを祈ったところで、飼い猫の生殺与奪の権を飼い主が握っているという構造からは逃れられない。猫を飼う人は、〈人は猫と対等であることができない〉という厳然たる事実を、甘言をもって歪曲すべきではない。

 死にゆくものを生かすことに心血を注ぐのが、動物を飼うということだ。その旅路は長く短く、鮮烈な輝きを放ち、人間の生涯にわたって記憶される。私は二匹を愛している。死別したのちも、私自身が死ぬまで愛しぬく。

 二匹と出会わなければよかったなどとは決して思わない。けれど、猫は死ぬという単純な事実の重苦しさに耐えかねて、その愛くるしい身のこなしや手ざわりを忘れようとつとめ、唇を噛みながらうずくまる夜更けがある。「いまや別々に暮らしているのだから、いなくなろうと私の生活は変化しない」と仮定してみる夕方がある。これらはみな、見当違いの骨折りだ。いまここにあるものから目をそらし、なくしたときのことで頭を占めようとするのは、私の罪深い悪癖だ。二匹は健在で、私のことが好きなのに。

 そういうわけで、私がふたり暮らしの新居に猫を迎えることは、おそらくない。命を預かるには、私はあまりにも弱く脆い。最愛の宇宙人にも、「猫を飼ったらあなたをないがしろにする自信がある」と言い放ったせいで反対されたことだし。