ひらログ

ひららかのブログ

 人生は選べない。私が生殖を望まない最大の根拠は、おそらくこの感覚にある。生まれてしまったからには、主体的に、意欲的に生きのびたい。そう願いつづけ、足掻いてもなお、「人生は選べない」の一文は、みずからに押した烙印のごとく脳裏に焼き付いている。

 持たざるもの、奪われたものを思うとき、憤りを諦めが塗りつぶすことのないよう、腹の底に細々と火をくべる。その瞬間に、はてなき日々に、「人生は選べない」が頭をよぎるのは、突飛な発想でもないだろう。この現象を克服したいのではない。私の場合は、いつもどこか、悲しく、恥ずかしい。

 私は生まれと育ちに恵まれた。謙遜のしぐさは欺瞞にほかならないと感じるほどに。生家に対してはいまだ複雑な心境にあり、帰る場所とも呼びがたいが、それでも高等教育と自尊感情をもたらされたことは確かだ──このふたつは、ゆるぎない、計り知れない、かけがえのない財産である。私はおおむね、暖かい部屋に閉じこもるかのような半生を歩んできたと自覚している。その暖かい部屋をしつらえたのは、私ではない。私の努力や意志ではない。恥ずかしさが私を苛む。

 なぜ生きるのか。より正確にいいかえるなら、なんのために生きるといえば、恥を拭い去ることができるのか。

 私は、人に会い、未知に遭い、思慕をあたため、頭をしびれさせる。大いに悦び、悶え苦しみながら、ことばを尽くす。私は生きんとして生きている。私は不幸でも空虚でもない。私の生活には、唯一の感触とささやかなおもしろみがある。けれど、私ひとりがそのようにあるとして、それがなんになるというのか。この疑念は霧消しうるのか。不条理であることと無意味であることのあいだに横たえた等号を、いかにして取り外すべきか。

 ときおり、あらゆる学問、思想信条、趣味嗜好、共同体、そして私以外の個別具体的な存在までもが、生きてゆかねばならないという事実と折り合いをつけるための、酩酊にいたる毒薬のように見える。これらの美酒を、生きがいと呼んでもさしつかえない。愛する人の隣や、猫の尻の下にいるとき、大気を嗅ぎながら歩くとき、鍵盤を叩くとき、ものを書くとき、私は私を恥じずにすむ。私は考え信じることを忘れないために書きとめているつもりでいたが、それと同時に、より恐ろしく大きなものを忘れるために書きつづけてもいたのだ。