ひらログ

ひららかのブログ

好きだから

 「前の会社で、文章のお仕事とかしてたんですか?」と、企画担当者が私にたずねた。手渡された箇条書きのメモをもとに、ブランドサイトに掲載する文章を練り上げているときのことだった。いえ、お客さん宛のメールを手直しされてばかりでした、と答えると、たいへん驚かれた。驚かれたことが心安い。

 前職の代表は、私の作文が気に入らないらしかった。「それじゃ数字は取れない」が口癖だった。デザイナーやプログラマーとして採用した社員に、得意先へ営業のメールを送れと言いつけるような人だ。正確でなくても、簡潔でわかりやすいこと。美しくなくても、興味を引くこと。文法や語法は二の次。感情豊かに、親しげに、大げさに。当時の私は、エクスクラメーションマークをむやみに打鍵する機械だった。書きかたの否定を通して、私の信じた礼節も、事実に対する敬意も等閑視された。

 この職場に移ってから、原形を留めないほどの「添削」を受けたことはない。かといって、だれも私の言いなりにはならない。表現の手ざわりと、そこに込められた意図を確かめあう姿勢を備えている。字句をひとつずつ掴み上げては、ねぶるように眺めまわす私の態度を、煙たがるどころか歓迎してくれる。率直な意見交換の結果として、修正を求められない場合が多い。「あなたのセンスを信頼している」というのだ。

 「仕事でやったことがないのに、こんなに書けるんですか?」と企画担当者はつづけた。──好きだからです。書くのが好きで文学部に入って、入ったら書くのがうまくなるなんてことはないんですけど、読み書きが好きな人に囲まれて揉まれて、読んだり書いたりしてきました。

 「好きだから! そうですよね」とうなずかれたのが、きょういちばん嬉しかった。「きれいで、すっと入ってきて、私の言いたいことも全部入っていて。伝えきれない思いをもやもや抱えていたのが、軽くなった」とも言われた。書きかたの肯定を通して、私の私でないものへのまなざし、学び知ろうとする意志も抱きとめられた。

 私の書くものに価値を見出す人があるからといって、この会社に骨を埋めようとは思わない。無知ゆえに法を犯した上、笑えない冗談と形ばかりの謝罪で済まされたからといって、私の仕事はすべて無駄だったとも思わない。因果の糸というのは、もっと細く、絡まりあい、ときにたやすく切れるものだ。通り過ぎ、振り向いてみれば、選ばれなかった道はすでに閉ざされて、ひとすじに軌跡を描いてきたのだと錯覚しそうになるけれど。

 当記事は喜びの素描である。折にふれ、取り出して撫でさするための。きょうのできごと、ほんの数分間の会話が、私に(傍から見れば)あさってのほうへと舵を切らせるかもしれず、あるいはなにも起こさないということもありうる。どこへゆこうと、私を掬い上げたことばが姿を変えることはない。いまはただ、やわらかな光に目を細めている。