ひらログ

ひららかのブログ

敬愛する先生へ

 大学卒業後、もういちどお目にかかりたいと願いつづけながら、まごまごするうちに四年半が過ぎてしまいました。以前ほど読み書きに親しめない暮らしぶりがすこし恥ずかしいのです。気後れしつつ見上げるような態度を先生は好まれないでしょうけれど、私にはどうしても先生がまぶしかったのです。

 このたび、ようやくご連絡を差し上げる口実をこしらえましたので、筆を執る練習をしてみます。ちっぽけな劣等感と自制心を脱いで、実際に手紙を書く気になれば、お見苦しい胸中の記述を削除し、明晰ぶった手短な便りをお届けしたく存じます。

 私にとっては学生最後の冬、タルトタタンの並んだテーブル越しに、先生は「将来を、と、こころに決められた方が、もういらっしゃるのですか」といったようなことを、おそるおそるおたずねになりましたね。そのこころに決めた人と、事実婚の夫婦になります。

 婚姻に準ずる制度ならびに手続きについて、私も夫になる人も、感慨を覚える性格ではありません。ともに暮らすという実態だけが私たちの関心の対象であり、このごろは関係各所との調整に追われるばかりです。煩雑な手続きによって得た唯一の喜びは、考えや望みをことばにして打ち明けあい、ともに抱きつづける人とふたりで生きてゆくのだと確かめたことです。

 大学三年生の初夏、文学館の展示に、先生とX先生のお名前を見つけた日のことを思い出します。ふとY先輩が「連名なんですね?」とつぶやいたとき、先生は「夫婦なんです」と短く答え、いつものやわらかな微笑みをお見せになりました。「先生は、こころに決められた方とともに生きることと、生まれ持った名において書きつづけることの、両方を選ばれたのだ」と、当時の私は推量しました。そのふたつは現在の私にとってもごく自然な欲求であり、必然の選択です。

 文学演習の教室で伺ったお話の記憶がとぎれとぎれに抜け落ちても、先生への思慕の念は、薄れるどころか年ごとに募ってゆきます。感傷に浸るより講義の内容を覚えておきなさい、と笑われてしまうかもしれません。平生の私は、メールを読み返して涙ぐんだりしないのですが。

 敬愛する先生。先生の教え子は、先生を思い、先生の教えを背骨にして生きています。(お目にかかれたとしてもお聞かせするつもりのない些事ですが、)私は生きねばならないことに対して前向きな人間ではありません。それでも、書いているときは、生きた心地がします。私のことばすべてに耳を傾け、ときに感じ入り、進学をすすめてくださった先生の慈愛に満ちたご指導は、生への義務感や惰性を内的な動機に変貌させる力をもって、私を包み込み掬い上げました。

 先生からいただいたおことばを、こころの奥底に銘じています。「あなたがあなたでありますことを」──人生の指針のように、灯火のように、私の胸をあたため、行く先を照らす祝福です。先生と尽きせぬことばを交わした教室や柱の陰で、私は私をいつくしみ、誇ることができました。先生の助けをお借りせずとも、私が私であるために、私はこうして書きつづけています。

 またお目にかかれる日まで、どうか、先生が先生でありますことを。