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ひららかのブログ

同居所感

 夫は他人の人格を規定することばを発しないということに私が気づいたとき、交際をはじめてすでに七年が経とうとしていた(夫というのは正確には「未届の夫となる予定の人」だが、当記事の執筆にあたっては重大な差異でないから、以下、夫と称する)。

 周囲がしてくれることに比べて、せずにいてくれることは見出されにくいものだが、それにしても興味深い特徴の発見が遅れてしまった。この春から同居して、互いに質問──情報を得るためではなく、応酬をおもしろがるための──を頻繁にするようになったことで、ようやく上述の仮説が打ち立てられた。

 夫の友人や同僚について「どんな人?」とたずねると、返ってくる答えはたいてい趣味と業務、そして言動の引用か行動の描写だ。なんらかの原則にもとづいて形容詞や連体詞の使用を避けているのか、と確かめてみたが、「ほんの一面を見て抱いた印象は言語化できないだけ」とのことだった。疑似相関の誘惑に抗って口をつぐむまでもなく、他人に着せかけることばを単に持っていない。

 夫は私をも、また夫自身をも、ことばによって規定することがない(私から手紙をねだらないかぎり)。この態度は、私の内部に膠着した自己認識を脱がせるのに、大いに役立った。幼少期から私の頭を占めていた、おのれの人格をもてあます感覚が融解しつつあるのだ。

 神経質で冷淡。これが私による私の規定の一部だった。私は、美への陶酔の対極にある動機から、食い入るように鏡を覗き込んでいた。はてしない、実りもない確認作業を反復していた。周囲のいかなる新たな規定も、それらが本心からの賞賛かつ理想的な美辞であったとしても、私の認識を修正しえなかった。規定によらない接触を重ねることでしか、規定から逃れることはできないらしい。

 周囲の人間に抱いた印象に言及しない夫は、自身の思考や感情のほうを率直に表明する。「うれしい」「かなしい」「おもしろい」「いやだ」というのをよく聞く。私はこのやりかたを非常に好ましく感じ、模倣を試みている。

 もたらされる刺戟からそれに対する反応までの回路は、直截な説明によって描出するとよろしい。すなわち、「私の好むこと、いやがることはなにか」を知らせるために、「私はあなたをどのように見ているか」を経由するのは迂遠なアプローチだと思う。「あなたはいかなる人間であるか」と混同するのはもっとまずい。

 夫の眼前にあって、私は、居心地の悪い被観察者ではなく、批判の視線を投げかけ夫をこわばらせる観察者でもない。私はこの人に褒められたいのではなく、この人を喜ばせたい。私の両目は古ぼけて曇った鏡を離れ、外の景色を映しはじめた。

 ふたり暮らしは、存外心安い。ひとつ屋根の下に他人の顔がちらつくと、いっそう気が休まる場合もあるのだ。これは新鮮な驚きに満ちた収穫であり、欠陥の克服といってもさしつかえない──私は愛する人を傷つけずにそばで暮らすことができるのだった。私の皮膚には、かたい殻も棘もなかった。

 かつての私は、同居とは互いの私的領域を侵犯せぬために不断の努力を要するものであり、また、ゆかしさの逓減に慣れることでもあると思いなしていた。けれど、実際のところ、私たちはかぎりなく接近した未知の個体どうしのままだ。ずっと昔から、この街のこの家に、この人と住んでいたような気もする。