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誕生日おめでとう

 五月七日。二六回目の誕生日を迎え、二五歳になった。きのう「一日早いけれど」と職場の人がくれた焼き菓子や、日付が変わってすぐに届いた友人からのメッセージが、私にそのことを知らせる。周囲から教えてもらうまですっかり忘れているものだから、二六回目にして、いまだ新鮮な驚きに満たされる。

 二五という数字は好きだ。二四よりも硬質ながら安定感を醸しており、また透明なかがやきをも感じる。二四のもつ調和の感じはたしかに美しいが、実用性に富む反面、その柔軟すぎる性格のせいで鮮やかさに欠けるようにも思われる。

 一二歳のころは一二が気に入っていた。ひさしぶりに、好きな数字と年齢が重なる。「ニ四は一二の二倍なのに、好きじゃないの?」と、二四が好きだという最愛の宇宙人は不思議がったけれど、二倍した結果はまったくの別物だから関係ないのだと私は答えた。

 二五は好きだ。二五は冷たく、明るくも暗くもなく透きとおり、ゆるぎない。私にはそう見える。私はゆたかな共感覚の持ち主ではなく、「見えない」数字のほうが圧倒的に多い。そんななか、二五には鉱石のごとき質感を見出せるから、きっとなにか特別な数字なのだ。これは印象や直観、あるいは趣味の域を出ない話だけれど。

 ついに四半世紀を生きのびた。在学時の目論見より遅れてひとり暮らしをはじめた先月から、私は健康そのものだ。過去のいかなる時期と比較しても、はるかに溌剌としている。生きていてよかったと思う。そうでなかったのはほんの数年前のことなのに、思い返したところで、当時の感情を体験することはもうできない。

 生きていてよかったとほんとうに思う。どうやら私達をスポーツの祭典に捧げる生贄とでもお考えらしいこの国にあって、閉塞感と憤りに抱かれながらも、生きのびる、生きてやる、と思う。しかし、〈生まれてきてよかった〉が私にはわからない。誕生を祝福される意味ものみこめない。誕生日とはなにか、ずっとつかみかねている。当日まで記憶しておくことが困難なのは、きっとそのせいだ。なぜするのかわからないことをするのが私はとても苦手だ。

 それでも「おめでとう」のひとことは嬉しく、最愛の宇宙人とは贈りものをねだりあって五回目くらいになる(正確な回数は忘れた)。誕生日を祝われるのは、嬉しい。誕生日の当日がとりわけ重要とは感じられないが、私は忘れている私の記念日に、私を思い出す人のあることが嬉しい。私のいう「誕生日おめでとう」は、これまで生きのびたことへのねぎらい、これからも生きてゆくことおよび生きてゆく世界が幸福であることへの祈り、ともに生きることへの喜び、などに翻訳されたい。

 敬愛する友人からおくられてきた、短い「おめでとう」にも、きっとさまざまの祈りがこめられているのだ。思慮深い人だから、期待が強制に転じないように、多くのことばを知っていながら多くを語らない。祝福をいっしんに浴びて、いまのところは二六歳の誕生日を迎える意欲をしずかに燃やしている、と私からこたえたい。

 誕生日は休日にならないから、大勢の他人たちにとってはなんら意味をもたない。その人のいま、ここにあることを喜ぶ人々にとってだけ、恥ずかしげもなく祝福のことばをおくることができる絶好の機会としてきらめきだす。二五歳、おめでとう。誕生日おめでとう。