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ひららかのブログ

曲がり角

 先月、生まれてはじめて、顔にしみを見つけた。今月は、採血の結果、中性脂肪が基準値を上回っていると判明した。これまでどおり過ごしてきたのに、と首を傾げたのち、これまでどおり過ごしてきたからだ、とうなずく。きっとこれが、歳を重ねるということなのだ。不摂生をすれば、それなりに響くからだになったのだ。

 悲嘆に暮れるというほどの感慨はない。加齢が不可逆の変質を意味するという事実は、出生の瞬間にはすでに決定されている。私の運動音痴はきっと一生治らないし、母や妹の背丈を越すことは不可能だと、悟ったのは十代のころだった。なにより耐えがたかったのは第二次性徴で、グロテスクな病変としか思われず、しかしそのような感想を述べてはならないらしいこと、述べたところで、枯れた血を流さない平坦な胴体を取り戻せるはずがないことを、数年かけてのみこんだ。

 採血の結果を聞いたその日に、運動不足の解消を兼ねて長い散歩をした。この身軽さは私の美点だ(人を巻き込む力に欠けるが、ひとりでどこへでもゆける)。川沿いを南下し、橋を渡って北上した。砂まじりの突風を浴び、砂利と枯れ草を踏みしめた。小規模なダムを見下ろし、ジャンクションを見上げた。流れゆくもの、わけがわからないくらい大きなものを眺めるのが好きで、足の裏を痛めながら興奮していた。

 散歩はおもしろかった。欲求と感性の曲がり角には、まださしかかっていないらしい。歩きたい。弾きたい、歌いたい。読みたい、書きたい。知りたい。会いたい。肉体の変質にはおおむね納得しているが、思い描き、望み、叶えんとする精神力の喪失は、死ぬほどおそろしい。私を生き生きと生かすものは、私自身の希望にほかならない。

 不摂生が響くからだは、養生にもそれなりに応えてくれるのだろうか──そんな淡い期待(信仰といいかえて、さしつかえないかもしれない)を腹に抱えて、野菜たっぷりの夕食を終え、これを書いている。生活態度を改めるのは、一年がかりの、ちっぽけな人体実験のつもりだ。

 いくつになっても、覚えておきたいことがある。個人的な経験を過度に一般化し、「あなたはまだ若いからいいけれど」などと歳下を相手にのたまう蛮行には、決して及ぶまい。二六歳まで生きのびようとしている私にわかるのは、私自身がどのような二五歳であったかということだけだ。