ひらログ

ひららかのブログ

 私と最愛の宇宙人とは、それぞれが別の場所で不可解や不愉快に遭遇した日、その旨を気軽に報告する。昨晩の電話では、おもに私が報告をする番で、「取引先の代表が、先輩に妻子がないことをわざわざ聞き出した上で『結婚しないなんてさびしいよ』『結婚をしなければ一人前の男として認められない時代もあったんだ』とうそぶくのを耳にしながら、私は机の下で中指を立てていた(し、先輩にもそう伝えた)」といった話などをした。

 彼や、いとしき学友に会う以前の私は、「話すことで、楽になる」という感覚が稀薄だった──生乾きの苦痛を他人にひらいて見せ、決定的な事実として刻印し、喉を震わせて反芻するよりは、押し黙ってぼやけてゆくのを待つやりかたを好んだ。つまり、平たくいって、愚痴の効能を信じなかった。

 知らず識らずのうちに、私の内面は劇的な変質を遂げていたらしい。平日の夜ふけ、離れて暮らす最愛の他人に、いやだったことをあえて思い返してつぶさに話すようになったのは、いったいいつからだろう。

 外向的でも話し好きでもない私が、みずからをとらえた怒りや失望を彼にすすんで開示するのは、全幅の信頼を寄せている証拠にほかならない。彼は安全な場所だ。私の居場所でありたいという彼の意志が、私に心安く裸の声をこぼさせる。

 私たちは、互いの暗く重いことばを受けとるとき、凪いだ耳としてただそこにあろうとつとめ、傾聴を装った事情聴取に精を出すことはない。私は彼に、彼は私に、「考えすぎ」「気の持ちよう」と告げたことはいちどたりともない。彼は私の悲しみを私のごとく悲しまず、それでいて、私は悲しいのだとたしかに識り、抱きとめる。私は、私は彼でないこと、彼は私でないことを知っており、その事実に敬意を払う。私たちのいかなる嘆きや誹りも、私たちのあいだに「楽しいおしゃべりを台無しにした」という後悔をもたらさない──私たちが困難や疑問を訴えるときの、憤り沈みきった姿、粗野な言動は、互いの芯にある甘やかでやわらかい印象をほんのすこしも傷つけない。

 未整理の事項にかんする思いつきや、我慢ならない不合理、わが低俗な趣味について、私がまっさきに話す相手はおおむね最愛の宇宙人である。そして、彼のほうでもそんなふうであったら、と、思わないでもない。

 私は彼に嘘がつけない。その必要を感じない。私たちは、互いの人格に浸潤し、よそゆきの顔を脱がせ、しみをこぼし、爪痕を留め、またその状況に愉しさを感じている。これを愛と呼ばずしてなんというのか?