ひらログ

ひららかのブログ

生活に飽きたら

 生活に飽きた。はじめてのことだ。特定の趣味や仕事にではなく、なにか、うすぼんやりと、生活全般に飽きた。

 適応障害の再来ではないだろう。ただちに取り除くべき、耐えがたい苦痛を味わっているわけではない。かつて陥った「なにもしたくない」も、食欲不振も過眠もない。ただ、なんか飽きた。なぜだろう。

 「生活に飽きる」とはどんな感じかというと、疲労とか倦怠とか呼ぶとちょっと大げさで、どちらかといえば乾燥している。仕事や家事は問題なくこなせるし、毎日に目標やささやかな楽しみもある。けれど、そこから得られる刺戟や感動は底が見えているというか、たかが知れているというべきか。

 やりたいことがなにもないわけじゃない。作りたい料理、弾きたい曲、取りたい資格、歩きたい川辺、読みたい本……はいくらでもあり、実際に手足や頭を動かすこともできる。それなのに、それらを叶えんとする瞬間のよろこびが、精彩を欠くような、そんな感じ。肉体の、肉体ではないところにうすい膜が張っている。

 なにもしたくないわけではない、とさっき書いた。むしろ、なにもせずにいることができなくなった。もとから無駄をきらう性格だったのなら問題ないけれど、本来の私は、なにもしない余白をこよなく愛する人間のはずだ。

 それで、「これをすれば、なにかしら意義のあることに取り組んだという実績をつくれる」みたいな動機から、掃除をはじめたり参考書をひらいたりする時間が長くなった。根が怠惰だから、疲れるまでやりこむ心配はないし、実際に意義のあることをしているのだけれど、やりたくてやるよりは楽しくない。

 もっと端的に「生活に飽きる」をいいあらわせないだろうか。うーん、好物ぞろいだったディナーブュッフェも、どこになにが置いてあるか完璧に覚えてしまって、いつしか「元を取らなきゃ」に転じていたような感じ? たいへんよろしくない。つまらないし、悲しい。どうして、こうなっちゃったんだろう。

  • 実家を出て猫と離れた
  • 実家を出てピアノにさわらなくなった
  • 最愛の宇宙人が県外に住みはじめて会いにくくなった
  • しばらく友人の顔を見ていない
  • カフェが20時に閉まるから、夜は家にいるほかない
  • 気軽に遠くへ出かけられない
  • 仕事にすっかり慣れた
  • じつは家事に疲れているのかも
  • ひとり暮らしをはじめて、いちにちのあいだに起こることがあらかじめ手に取るようにわかってしまう
  • 世相が暗い
  • 睡眠が足りない
  • 運動が足りない
  • 日光浴が足りない

 思いつくのはこのあたり。ひとり暮らしは心身の健康によい。それは私にとって輝かしい真実であるが、そのぶん家の外では未知と遭遇していたいのかもしれない。そして、手に取る書籍や観にゆく映画は、けっきょく私の頭で選びとったものだから、既知のなかの未知にすぎず、意表を突くという観点から評価すれば不十分なのだ。

 このやるせない渇きを癒すには、生きものや、人がつくったのではないものを、さわるのがよいような気がする。たとえば、熱いくらいあたたかくて、目をみはるほどやわらかい猫。まぶたを透かす日ざし。夏のにおいに変わりはじめた風。考えたりしゃべったり笑ったり悪態をついたりする人間。

 存外、私は、人並みに他人の存在を欲する人間だったのかもしれない。想定外の事態に胸を躍らせる側面をもっていたのかもしれない。心底驚いている。実家に暮らして、「ひとりの時間がないと死んじゃう」と思いつめて、たしかにそれはそのとおりで、いざひとりの時間と空間を手にしてみたら、「ひとりの時間だけあっても、なんで生きているかわからなくなっちゃう」ことがわかったんだ。

 なぜそう結論したかというと、「生活に飽きた」とツイートしてすぐ、友人が食事に誘ってくれたのがとても嬉しかったから。これに飢えていたのだと直観したから。わが生活にふたたび愛着をもちはじめるための、ひとすじの光ではないかとさえ感じた。いま、書くこと、それを人に読んでもらうことの効能をかみしめている。

 生活に飽きており、受診を検討するほどの支障は出ておらず、明らかな原因も思い当たらない場合は、人に会ってみることにした。他人の存在は未知と偶然そのものだから。