ひらログ

ひららかのブログ

同性と交際した経験のない両性愛者が質問に答えます

 私はヘテロセクシャル男性と交際している、バイセクシャル女性(のからだの持ち主)です。同性と交際した経験はありません。これまでに受けた質問に答えます。

 ここで取り上げるのはおもに、友人からためらいがちに差し出された素朴な疑問です。「それは気になるよね」「知らなかったらまあ聞いちゃうよね」とうなずきながら書きました。おたより、ありがとう!

 それでは、おひまつぶしにどうぞ。

どうして女の人とつきあわないの?

 単に「彼女ほしい」などとは考えていないからです。いや、うそ。ちょっと仮定してみたことはある。まあいいや。

 「互いに好意をたしかめた相手が女の人だった」というミラクルに恵まれたら、女の人とつきあっていたかもしれない。いまは、愛したのが男の人だったから、男の人とつきあっている。それだけです。

 私は極端に内向的な性格で、他人と親密になりたいという欲求の希薄なほうです。「この人と恋人どうしになりたい」と願うことはあっても、漠然と「恋人がほしい」と思ったことはありません。

 中学生くらいまでは、「だれのことも好きにならないか、あるいは男の人のことは好きにならないのかもしれない」と疑いながら過ごしていました。いま答え合わせをするなら、惜しい! ってかんじ。そもそも好きになる人がいなかったら、じぶんがなにを愛する性質の持ち主なのか、気づきようがないよね。

 ゆえに、カップルの成立を主目的とした場に顔を出した経験もありません。交際相手とは「高校の同級生。大学生になってから趣味の音楽を通して再会、意気投合した」という、教科書の記述なみにありふれた出会いかたをしました。なにもがんばってない。まじラッキー。

 そう、同性とつきあうということは、私の選びとった環境ではミラクルにひとしいのです。広告が、法制度が、歴史が、<すべての人間は異性愛者である>ことを前提としている、いま、ここにあっては。

 なにげない雑談から「この人、私をヘテロだと見なしているな。説明しないかぎり、疑いもなくそう扱われるのだな」と思い知らされた経験は、数えきれないほどしてきました。さながら透明人間の気分です。

女の人とつきあったことがないのに、どうしてバイセクシャルだとわかるの?

 私が自身のセクシュアリティをたしかめるにいたった経緯をここに書き連ねてゆくのはたやすいことですが、そういったことをせずに納得のゆく説明を提示すること(そしてこのような質問がだれに対しても不要となること)こそが当記事の目的でもあります。

 つまり、こういうことです。交際経験のない人に対して「あなたには恋人がいないのに、『自分は異性に恋をするのだ』とどうしてわかるの?」とたずねる人があったら、ふしぎに思われませんか。

 私がバイセクシャルであることは、多くのヘテロセクシャルがそうであるに違いないように、現在の私自身にとって「ごく自然であり、疑いの余地はなく、はじめからこうであった」としか言いようのないことなのです。

 当人の内面にゆらぎや葛藤が生じるのは無理のないことですが、他人が「ほんと?」と疑いを投げかけるのはあまりに無粋です。「ファッションレズ」なんてことばも聞かれますが、もってのほか。ファッションのこともばかにしてるよねえ。

 ところで、セクシャルマイノリティを嬉々として名乗る人や、自身はセクシャルマイノリティであると偽る人ってほんとうにいるんだろうか……。「ホモ」だの「あっち系」だの聞かされて、じぶんの話をされているわけではないとわかっても指先や唇がふるえ、頭はあついのか冷たいのかわからなくなり、事実を話してみればあいまいな笑みをもって受け止められ……こんな場面にいちどでも遭遇すれば、名乗るのがいやにもなるよ。名乗りつづけるけれど。

セクシュアリティを公言してなにがしたいの? 非当事者に、どうしてほしいの?

 どうもこうも、なんもねえよ! 金くれとかちやほやしろとか、頼んだことねえよ!

 平たくいえば、<異性愛者にならできること>を、まったく同じようにしたいです。法律婚はその典型例だよね。異性と交際している私自身には縁のないことですが、同性婚はぜったいにぜったいに実現してほしい。

 愛しあい、ともに暮らすふたり(日本ではふたりと決まっているのよね)に論理性のかけらもない説明でもって「家族の形として認めましぇん、生活の保障もしましぇん」を突きつける現在のふざけた婚姻制度にみずからを投げ入れたくないので、夫婦別姓および同性婚が可能になるまで結婚をしない予定です。

 余談ですが、これを言うとたまに「えっ? カレはそれでいいわけ? 親は? 優しいね〜!」ってなる。ウケる。親は関係ない。彼は勉強家で、頭がやわらかいので「だれかが困っちゃうシステムは、『いままで続いてきたから』とか関係なく変えるべきだよね。よりよくしようっていう単純な話じゃないのかな? 変えたくない人は、もっと便利にしたくないのかな?」といった立場です。まじハッピー。

 そしてそして、より見えづらいマジョリティの特権は〈いっさいの説明を要求されないこと〉であると私は日々感じています。いいかえれば、そこにいるだけで、いることに気づいてもらえるのよね。

 裏を返せば、マイノリティはそうではない。透明化されている。外国籍の人、心身にハンディキャップのある人、シングルマザー・シングルファザー(これもさ、シングルペアレントじゃだめなのかな)などなど、同じ苦しみを抱えていそうな人は枚挙にいとまがないほどです。

 セクシュアリティ以外の面から私をとらえたら、あらゆる評価方法において、たちまち圧倒的マジョリティ、あるいは(むろんこれは虚像なのだが)マスメディアの描く「ふつうの人」となるでしょう。日本に住む日本人で、両親は健在で、右利きで、妊娠・中絶経験のない20代で……。だから、私はこれを私に宛てて書いてもいます。

 「ヘテロセクシャルであることを公言せずとも、ヘテロセクシャルであることを認められる」のはヘテロセクシャルのもつ特権です。私はそれがほしくてたまらない。身のまわりをそうしたくて、その意志をもつ人とともにありたくて、ものを書いています。

 ほんとうにしたいのは、「吾輩はバイである」と高らかに叫ぶことではありません。声を上げずとも、ここにいることを知ってもらえるようになるために、まずは声を上げてみることにしているのです。がんばってるね。

 私は「バイなんだ」を「人間なんだ」と同じくらい、無意味な、自明の、ありふれたことばにしたいのです。世間は「バイ? きもちわるい」から「バイ? いいとおもう」まで前に進んだのだから、その先にだってきっとゆけるはずです。