ひらログ

ひららかのブログ

アルバムリリースによせて

 最愛の宇宙人、ウール・プールによるはじめてのアルバムが、きょうリリースされた。聴けば、彼の曲だということも、彼がなにによろめき、ひかれるのかも、私には手に取るようにわかる。そういう純度の高い楽曲で編まれているのだ。つくるのが好きでしかたなくて、曲をつくらずにはいられない人だから。

 音楽やことばに救われた経験はあるが、他人を救ってやるというつもりで発せられた音声や文字というものを私は信頼しない。私はかつて彼に抱き起こされたおかげで、いまもかろうじて直立しているという気がしなくもないが、彼には私の歩行を支援した記憶などないのだろう。彼の作品も同じように、ふらふらとひとり歩きして、どこかでだれかを上機嫌にしたり嫉妬させたり、まどろみへ導いたりするのではないか。

 話はよりあからさまにアルバムから逸れる。彼を知るまで、私はおどけたまねをしないほうだった。思いを確かめあったばかりのころも、まだこわばっていたはずだ。だから、しばらくは、ウインクや、髪をかきあげて恰好つけるしぐさなんて、とうていできなかった。人前で口を大きく開けて笑うことさえまれだった。私は私のことが気に入らなかったから、私を他人たちにひらいてみせることも避けていたのだ。

 彼は、私自身には過剰なものとしか見えず、うとまれていた私の特質を、みな好きだと言った。かすれた低い声、八重歯、外斜視、たくましい骨格と贅肉、それに、ことばへの感じやすさや、考え込み、思いつめるところまで。あるとき、私が私でよかった、とも言った。その瞬間はいっしんに祝福を浴びたようだった。あなたがあなたでよかった、と私は思う。

 つまり、光の当たらない場所に、うつくしいところを見出すのがじょうずな彼なのである。ある日曜日、私たちは、楽器店にて聴音の問題を出しあった。彼の出題する和音──新曲に使ったとかいう音の排列は、奇想天外で、ぶつかって濁り、けれど、どこか洒脱でおおらかだ。

 私は耳をすますが、何度くりかえしても、全体像がつかめない。そこで、しぶしぶ解答の開示を求め、手もとをのぞきこむ。あらためて驚く。そんなのわかりっこない、とほとんど笑い転げそうになる。よく見知った六一鍵とか八八鍵とは別の楽器が踊りだしたかのような、それでいてなつかしい響きを、彼の指は紡ぎだす。

 ウール・プールのムーン。とびきりかわいくふしぎな音楽家による、とびきりかわいくふしぎな曲集が産まれた。

わからない

 プログラミングの勉強がはかどらない。一段落してからこれを書こうかとも考えたが、たまりかねて、吐きだす。湧きあがることばたちを内にとどめたまま、新しい概念に接して、解きほぐしたうえで摂取するという大仕事にいそしめるほど、私は器用ではない。

 私はプログラミングがよくできるほうではない。のみこみは遅いし、頻繁につまずく。今後とも「センスがある」と評される機会には恵まれないだろう。それでも、できるまでやってやる、と信じ込んでいられることだけが、私の才能、あるいは酔狂なる性質として、燃え残っているという感じがする。こんなにもわからないことだらけなのに、おもしろいからかじりついている。

 わからないことに対して(比喩ではなく)熱くなるのはずいぶんひさしぶりだ。卒業論文を書いていたころは、しょっちゅうこの感覚にさいなまれた。鼓動が指先までふるわせ、胸とも背中とも喉ともつかない内側のほうがほてり、目の奥が焼き切れそうな気がしてくる。

 「英文が読め、精緻な日本語が話せ、具体と抽象を往き来でき、怠惰であるなら、優秀なエンジニアになれる」とまさに優秀なエンジニアであるところの友人はかつて言い、そのことが私に火をつけたのだと思う。

赤の食卓

 保守論壇の月刊誌で埋め尽くされた書棚の鎮座するリビングにて夕食をとるとき、実家を出るべきだという考えは生理的欲求にも似てきて、単に生活の手段として就職を選んだのは不誠実きわまりない失策であったが、いちどはそうせざるをえなかったのだから、無駄とはいわない、必然であった、とぼんやり思う。

 問題は、とうにはじき出された結論を実行に移さず、古びた家にとどまりつづける暮らしぶりである。現在の私は、ほんとうのところつづけたかった学生でも、せねばならないと決めたはずの会社員でもない。みずから懇願し、余白に放り出され、健康と豊かさを取り戻したのだ。ただし収入は途絶えた。

 よく目立つ表紙の真っ赤な太字、隣国への罵詈雑言を見やりつつも、滞りなく「ごちそうさまでした」を発するようになった自身がそらおそろしい。著者や読者には「正しきものならばなにを言われても傷つかぬはずなのだから、われわれの〈言論の自由〉を妨げるな」と主張するものがある。恥ずべき誤りだ。私たちが手にするのは、他人から踏みにじられない権利と他人を踏みにじらない義務のみである。だれにも他人を踏みにじる権利はない。他人から踏みにじられたものに、黙って耐えたり、笑い飛ばしたり、毅然と立ち向かったりする義務はない。

投薬

 適応障害、軽度のうつ症状、と診断された。その名がいかなる意味をもつか、私に正しく把握するすべはないが、心療内科医がそう言うのだから、そういうことらしい。とにかく会社を休みたいのですが、休むのもこわいです、としどろもどろになりながら、心身にあらわれる不調を書きとめたメモを差し出し、いくつかの質問に答え終えたとき、私は病人になっていた。このことには驚きも悲しみも安らぎも覚えない。気がかりなのは、この失望からいつ抜けだせるかということだけだ。

 ほぼ予期したとおりの、承知しているつもりではあったものの認めがたい事実を聞いた──単に会社をやめるだけでは問題は解決しにくい。さいわいなことに症状は軽いから、いちど環境に慣れるよう努めてみるのが望ましい──それで明日は出社することに決まった。そのとき、やはりやめてはならないのですね、と落胆するみずからに遭遇した。私は休養の許可を欲していたのかもしれない。とかく、このやりきれない閉塞感も一過性の症状にすぎないと信じ、朝六時半の電車に乗るほかない。

 騙されたと思って飲んでみて、と、気分がよくなるという薬を処方された。私のこころもからだも、私の所有物でありながら、私の統制下にはないということを強烈に意識した。すっかり騙してほしいと思う。

海を聴きに

 一〇連休に入るのがうれしくて、海を聴きにか、海で眠りにか、退勤後にそのまま出かけた。家族には「海を見てくるから遅くなる」と連絡したが、このあたりのは黒くよどんだ水たまりみたいなもので、観賞には適さない。そもそも私は海がとりたてて好きではない。冷たい風の吹く水辺であればどこでもよろしいのだ。

 むくんだ足をひきずりながら堤防を進み、周囲の話し声が届かなくなったあたりでコンクリートに腰かけた。水は汚く、風はなまぐさい。曇天のためか、水平線は線と呼べるほどの輪郭をもたなかった。それでもいっこうにかまわない。私は海を見にきたのではなく、ぼうっとしにきたのだ。波と人工の壁が作りだす、複雑で周期的な音がたえず鳴っていた。ぶつかって砕ける、飛び散る、のみこむ、少しのあいだ凪ぐ、またぶつかる。それは半永久的にくりかえされるだろう。寒くてじっとしていられなくなるまで、ずっと海を聴いていた。

 それから野良猫の背中を眺めまわして帰った。優秀なエンジニアである友人から連絡があった。勉強好きの人だ。勉強をしたくてしていることになんの問題があるのだ、したいのならすればよい、と彼は、もっと少ないことばをつかって、焦る私に教えた。楽しい、気休めにすぎぬかもしれない勉強を、私はつづけることにする。