ひらログ

ひららかのブログ

 何度でもここに書きつけましょう。人は決してわかりあいません。とりとめのないやりとりに挿入される「わかる」という相槌は、むろん私にとっても快いもので、励ましにも慰めにもなってくれますが、それはあくまで断片的かつ偶発的な共感にとどまるということを覚えておかなければ、わからないものにまで「わかる」と答える欺瞞に陥ったり、「わからない」を拒絶の表明であると誤読したりするおそれがあります。わざわざ他人と会い、話しあうのは、わかりあうためではなく、わかりあわないのをおもしろがるためだと私は見ています。

 人と人とのあいだには、冷たくてしずかな底なしの淵があり、それは〈産み育てた/産み育てられた〉の関係にあろうと、際限なくおしゃべりをつづけようと、裸になって抱きあおうと、埋め立てられるものではありません。踏み越えようとこころみるのがお近づきのしるしだと考える来客ならば、かえって遠ざけるにかぎります。

 私がもういちど会いたいと思う人々は、人はわかりあわないということをわかっています。淵のむこうに、ひとりまっすぐ立っているのです。「その感覚は抱いたことがないな」とか、「つくづく私たちは似ていない」とか、他人が他人であることを確かめて笑い飛ばしあうとき、私はことばが通じあうのを感じます。