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ひららかのブログ

勉強会

 二社目の就職先では週にいちど「勉強会」を催す。著名な経営者の自伝を輪読し、感想を語りあうというものである。なんの意義があるか。私にとっては、ここでの社会的通念とのチューニング、につきる。この土地の不文律を、肌にしみこませるための会だ。

 私はそこで、共感を覚えた細部に賛意を表す以外の発言をしないよう、注意を払っている。いな、かつては批判を述べもした。批判は異なる立場の否定を意味するものではないし、一定の結論を導く気もない。多様な声が集まればおもしろくなる、とただ思いついて、率直に述べた日があったのだ。

 その試みは挫折した──私はむずかる幼児よろしくなだめられた。「そういう読みかたもできるかもしれないけれど、いい話だと思う」「あと何年か生きれば変わるよ」といったぐあいに。私は失望し、これは読書ではないと判断した。賛意がほしかったからではない。議論がしたかったのだ。はじめから正解の示唆されている会話を、共感を示しあうだけの場を、勉強会とは呼ばない。

 怠惰で薄情な私が外に出れば、どういうわけかつねに、素朴で善良な、信仰のあつい人々に恵まれる。またもあたたかくしめっぽい土地に足を踏み入れたらしい。信仰それ自体はありふれた現象だが、布教にも熱心となると迷惑だ。

 もとより、転職活動に際して、ほんのひと飛びで最終到達点にありつける見込みの薄いことは承知していたし、いっさいのおもしろみを感じない仕事といえばこの「勉強会」のみ、すなわち一週間あたりわずか六〇分と大幅に短縮したのだから、転職はおおむね成功したといってさしつかえない。

 

2020.05.29 追記

 この「勉強会」を、退職者をも含めたすべての従業員が「中止にしてしかるべきだ」と考えている、と耳打ちされ、私の同僚に対する信頼は回復した。しかし依然として──ちょうど今朝も──熱心に教えを説く代表を取り囲んで、私たちは賛意を示しつづけることに貴重な六〇分を費やしている。

 従業員の敬虔な祈りが、不本意な演技であることは理解できた。とはいえ、その事実は私をじゅうぶんに慰撫しえない。窮屈な一定のふるまいをからだに染みこませ、ご機嫌とりに明け暮れる習慣から、解放されたわけではないのだから。