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六色の虹をまとって

 一社目の「優良企業」をぬけだす以前のほうが、周囲のだれもが「やめていい」とうなずく環境に身を置く現在よりずっと頻繁に、「やめたい」とさんざん書き散らしていた。その理由はふたつほどある。

 ひとつめは、「とりたてて瑕疵のないこの会社を早期に離れるのは私に適性がなかったからだ」と書くことに、棘をまきちらしているという不愉快な自覚はともなわないということ。それに対して、現状を明らかにするには、他人を悪しざまにいうほかなく、そんな作業にいそしむおのれはつまらないのでやや控えた。

 ふたつめは、思い出すというかたちによってさえも、できるかぎり会社に接していたくないのがいまであるということ。代表に言及するたび、私は苦痛を軽減するどころか、ていねいに反芻しているかのような気分に陥る。

 ならば「やめたい」ではなく、退職を決めたそのときに「やめる」と書けばよろしい、と企んで、実現したところで当記事が産まれた。今月末日を最終出勤日とする。

 私が吐き気をなんとかのみくだしながら出社していること、顔を合わせるたびに動悸がはじまるということなどには思いいたらない代表は、最後になるとはまだ知らない定期面談にて「一流をめざすためにひとつ。服装が子どもっぽい。あなたは自分の魅力をわかっていない」との助言をくれた。

 以前の私なら「無地のTシャツにスキニージーンズ、ナイキのスニーカーが、服装自由の職場で指摘を受けるほど子どもっぽいだろうか」と頭を抱えるところだが、いまならわかる。自他未分の幼児のごときあのかたは、ご自身のご趣味のみが絶対的な善であると信じておられるというだけのことだ。服装にけちをつけられたから退職するのでは決してないが、かえって笑い声をもらすほかないような絶望的なつうじあわなさというのは、このような弛緩したやりとりのなかでこそ、たしかめやすい。

 もう少しとどまるつもりらしい先輩は「タフじゃないとここではやっていけない」と教えてくれた。このかたと代表との差は、自身に備わっているのと同等のタフネスを他人にまで要求したりなどしないという点につきる。

 私はまったくもってタフでなく、タフであるのがよいことだとも、タフになりたいとも感じないから、ここで降りる。この職場にあっては、タフネスの定義に「ルッキズムや学歴主義、過剰な根性論や自己責任論にもとづく差別的な陰口を看過できること」がいやおうなく含まれるから。

 職場、教室、家庭──記憶をどこまでさかのぼっても、私にとって居心地のよい「場」というものに行き当たることはない。つまり(乏しい経験のみから判断したところ)組織とか集団とかいった制度そのものに、このからだはなじまない。

 けれど、この見立ては、個々人との関係に恵まれているという深い実感を否定するものではない。いままでずっとそうしてきたように、私は、朗らかで面倒見のよい先輩方を、来月にはすっかり忘れているだろう。それにしても、このかたがたに助けられているのはほんとうだ。

 六色の虹をまとって、電車にゆられている。プライドコレクションの、派手なサイドライン入りのスウェットパンツ。いまや、別れゆく人のご機嫌とりに意味はなくなった。子どもっぽくておおいにけっこうだ。私は私を祝福する正装でターミナルを闊歩する。